LLMの進歩で、知識労働の多くが少しずつ置き換えられていく。これは今更驚くことでもないし、恐れてもあまり意味がない話だと思っています。

ここ数年で気に入っているアナロジーがあります。自動車が馬を置き換えたとき、乗馬という営みは消えませんでした。むしろ逆で、移動手段として馬が必要だった時代には「乗馬を趣味にする」という発想自体が生まれにくかった。

移動手段が馬だった時代には、誰もが馬に乗っていた。うまい下手はあったとしても、それは単なる能力差で、特別な価値を持つものではなかった。

ところが自動車が普及すると、乗馬は「わざわざやること」になった。乗馬が上手い人は尊敬され、同じ審美性を持つ仲間を見つけ、ちゃんとしたマーケットまで生まれた。これは移動手段として馬を使っていた時代には、誰も予測できなかったことです。

同じことが今まさに、知識労働を起点にあらゆる人の営みで起き始めていると思います。じゃあ何が大事なのかと考えると、「自分が美しいと思える価値観を持ち、磨くこと」に行き着きます。

乗馬の例で言えば、「馬と人との関係性に美しさを感じる」という審美性が、その人をその営みへ駆り立てる。正確に早く目的地へ着くことが目的ではなくなったとき、「どう馬と対話するか」「どう乗りこなすか」というプロセスそのものが価値を持ち始める。

自分の審美性を発見するには、まずアウトプットするしかない気がしています。外に出してみると、それを受け取った誰かが反応する。その反応の中に「同じものを美しいと思う人」が必ずいる。

Podcast「フリーアジェンダ」の相方であるHikaruさんとは10年の付き合いになるが、話が合うのは、文章に対する感覚がよく似ているからだと思う。「どんな文章を美しいと思うか」という点でウマが合う相手は、意外と少ない。審美性を共有できる仲間です。

「道」という概念

武士道、茶道、華道。日本には「道」という概念がある。

「道」の本質は、技術や結果ではなく、姿勢・修練・自己との対話にあります。茶道で大切なのは、美味しいお茶を効率よく入れることではない。どう所作を磨くか、どう空間を整えるか、そのプロセスに意味がある。「道」には、外との比較ではなく、自分の基準との勝負という思想が埋め込まれています。

AIは「正確さ」「速さ」「面白さ」では、もうかなりのところまで来ている。少なくとも私には勝てないと思うことの方が多い。でも「私らしさ」「継続」「修練の歴史」はどうか。これは道そのもので、AIと自分を分けるものになり得る。

私は文章を書くのが好きだ。

でも正確さでも速さでも面白さでも、AIには敵わない。それでも「私らしい文章を書き続けること」に価値を感じている。なぜかと問われると少し難しいが、「自分のハードルを超えたときの感覚が好き」というのが正直なところです。

SNSでバズったとか、読まれた数が増えたとか、そういう外の基準は気にしていません (3万人くらいフォロワーがいたTwitterのアカウントを3年前に削除したくらいだし)。

それより「自分にとって納得の行く文章が書けた」というのが、書き続けるモチベーションになっています (もっと短く端的で心を揺さぶる文章が書きたいものだ)。

これは文章を例にしたものの、文章に限らず、「審美性と道」というのが、今の私の自己確立のスタンスを一言で言い表せる言葉です。

自分が何を美しいと思えるかを磨き続ける。外の評価軸ではなく、自分のハードルを超えることに喜びを見出す。それを継続することで生まれる「修練の歴史」こそが、AIに置き換えられない何かになっていくのではないか。

そんな気がしています。